原始仏典の中にお釈迦さまのお言葉として、「わが身にひきあてて」という お諭しがよく出て参ります。また、「人は、自分より愛しいものを見つけるこ とはできない。それと同様、他の人々も自分がこの上なく愛しい。だから、自 分の愛しいことを知るものは他の人を害してはならない」と示されました。 人が人としての人権を侵されることなく、それぞれに尊重され、誇りを持っ て生きていけるということは人間の当然の権利です。 しかし、現実は、「自分が傷つくことには敏感なのに、人を傷つけることに は鈍感である」とよく言われるように、なかなか差別がなくなりません。意識 的であれば当然、たとえ無意識のうちであっても、人が人を差別することは許 されません。差別に目をつむることも大きな差別行為です。わが身にひきあて 「自分がその立場だったら」と問うて行動することが肝心なのです。
お盆は、ややもすると「忙しい忙しい」で命の問題を深く見つめる心のゆと りを失いがちな私たちが、ご先祖さまとの命の繋がりを通して、自分自身のい ただいている命の尊さに気づき、その尊い命をどう使わせていただくべきか、 命をどう磨いていくべきかを熟慮し実践する期間です。 亡き方へのご供養は、形に見える世界から形の見えない世界に向かっての働 きかけですから、時に迷いがちになります。しかし、疑問が生じた場合には、 最も大切な人を遺して逝かねばならない時の自分を想像してみれば、明確な答 えが出てまいります 真心を込めて、お茶やお水、お花やお線香をお供えすることは非常に尊いこ とですが、何よりも、私たちの日々の生き方が肝心です。亡き方に喜んでいた だけるような、安心いただけるような、さらに申しますならお褒めいただける ような生き方をこそ心がけたいものです。
日本の仏教を、葬式仏教とか法事仏教と呼んで批判する方がいます。 「お釈迦さまはひたすら仏道を行じ、人はどう生きるべきかをお説きになっ た。日本の仏教は本来の仏教ではない」と主張します。 果たしてそうでしょうか。お釈迦さまの教えの根本は、すべての生命がか けがえのないものであり、その命はすべて支え合って生き、生かされている、 その尊い命をどう活かせばいいかを示されたことです。 その尊い命に深く触れられるのは、まぎれもなく親しい方失った時です。 道元禅師さまは、道を学ぶ上で非常に大切なことは、無常を観ずることである と示されました。無常とはすべてのものが変化し続けている事実のことで、 人の死もその一部ですが、私たちが深く無常を感ずるのは、やはり親しい方 との別れを通してです。 儀式のための儀式では困りますが、親しい方のご供養を通して深く命をみ つめ、生き方を学ばせていただきたいものです。